2010年05月31日

m.qyi ポエジー回想1

挨拶
はいくろうさごろうくさんぎの残暑かな (現ふぉ 05/08/25)


僕のやり方として、題を置く。題と詩が対立関係にあって、詩の中にもう一つのコントラストがあるという構成を作ろうとしている。
ただ、これはのべーっといってコントラストがないか錯綜するようになっている。
俳句が定形というのは語呂の問題だと思うが、語呂というのは意味がないから語路でそこに意味を転がせるってことだろう。
意味深長もいいけれど、そんな感じがでるというのもなんか大切じゃないか。

は〜い、クロウサ(ギ)御労苦参議の(で)ござんしょ、かな、

それで、かなってのは?

惚れた桃尻白兎さの下の名前がカナってんだ。




いま思いついた想いつきだけれど。かってに話がついてくるのがおもしろいなあ。



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2010年05月08日

方丈記

方丈記

 

昨夜、方丈記というのを読み、なかなか感慨深いものがあった。僕は情緒的に奥の深いものが嫌いで、理知的なでっかいパイプオルガンみたいなものが好きなだけにこれは趣味ではないとう先入観があってなんとなくとっかかれなかった。

それからちょっと前に、折口が隠者は女房の代替えというような話を読み、なるほどなあと思ったけれども筆の運びとしては美しいとは思えなかった。これは僕の趣味が半分、無知が半分の無見識なので、ただ好きじゃなかったということだ。ただ、内容については頷かされて、兼好などはそんな感じがするなあと思う。ちんぴらを人の理想とする僕としては兼好はスマートな人で話も僕に言わせれば軽薄だ。これも、これは僕の悪趣味と無知が故のことだ。そんなちんぴらの僕だからとっかかれなかったということもある。


方丈記を実際に読んでみると筆の運びに力があり読まされてしまう。一気呵成にと神田(秀夫)の解説にあるが、もしそうだとすれば書く前の思念には強いものがある。構成としてはきちんとしている。戦争に触れないというところ、これは考慮に値する。書名からして住まいにこだわるところは上記の僕の先入観もあながち事実の一つの側面を見ていることになるかもしれない。大福光寺本という古本が長明直筆だろうと神田が言うが、考証する力を持たない僕が言うことは何もないが、その筆致を見るとなるほど唸らされるものがある。僕はそういう学者が持っている情熱というものが大好きである。理知的な構築も世紀の大発見も大切であろうけれど、音を鳴らす千本のパイプのオルガンのブーブーは神様だと思うのだ。そういう楽器を弾く人がいる。

さて、そういうちんぴらのぶった話は耳が腐るので、分相応に話せば、読んでいたとき、ある下りに思い当りがあった。その思い当りというのは、


鴨よ:芸はこれつたなけれども人のみみ転ばしめむや鴨の水掻き


とかというのだ。転ぶというのがおもしろいなとは思ったけれど何てこたあねえだろう。石原大介という人だが、高卒か高校中退のお兄ちゃんだった。こういう不遜な言い方をする奴を世間は憎むだろう。僕は、別にそれでいい。このようにこの兄さんに不遜な態度の僕だが、じつは、このパクリ、パくった場所がいい。有名な書き出しでもなく、騒がしい天災でもなく、転調してぐっと情感が溢れてくる方丈の終わり、琵琶の秘曲、流泉が水の音に操られるという箇所で、おいおい、パンクがキミのなんのさって箇所だ。昨日の晩になって馬鹿にして読んだものに馬鹿にされて感動している僕の方がどれだけ何てこたあねえだろう。人間生まれたからには100円ライタ―のおあ兄ちゃんでありたいと思う。


昨晩読書中ふと思い出したこの人はもう逝ってしまった。


一人だけ切符の買えぬアホがいてカスタネットで病にロック


何てこたあねえけれど、これを見たときにはずいぶん泣いた。別に先立たれたれたからというわけじゃない。このくだらない文言には今でも泣ける。僕をスズメと同じにしてくれるな。会ったこともない。100円ライタ―がきらりと光る。


 


posted by rudolfkirsch at 21:09| 北京 | Comment(0) | TrackBack(0) | Articles | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月05日

下駄ばきにミニシガー

下駄ばきにミニシガー

 二階屋で蝶を飼うよなおとこなり


 というのがあった。僕はこれがとても好きだった。たいへん呆けていて、悲しかった。馬鹿な青年の目に青空と流れて行く白い雲が見えるような気がしたから。僕の想像の中ではどう見ても悲しいお話の場面のワンショットだった。そしてこの人はもう死んでいたと、そういう話だった。想像の中の蝶々はどうやってもクローズアップされなかった、衾を取り払った吹き抜きの畳の広間の薄暗い中右から左へ瑠璃の菫がひらひら落ちるようにすっと横一文字に飛んでいる胡蝶だった。そこを着物姿の男がふらふらと鬼ごっこのように後を追い、蝶は欄干を抜け空の彼方にゆっくりと登って行きそれを男が涎を垂らしているかどうかは知らぬがぼうっと見送るというようなワンショットだった。


そのような解説は実はコジツケなのかもしれない。この句(べつに何とよんでもいいが、詩)を読んだときに思い浮かんだのは呆けた青年の目に浮かぶ空だった。そいつから演繹するとどうもこんな話になるらしいという虚事(そらごと)なんだろう。しかし、時間的には故事をつける方が矛盾する。過去に遡って行くから。どうしてだろう。


 最初は、「二階屋で」という今ではあまり見られない(?かはどうかはしらない)建築様式がそんな雰囲気を醸しだしているんだろうと思った。そういうものが着流し姿などをイメージさせるのだろうと。ところが、


「二階屋で蝶を飼うよなおとこです」


というと全然ピンとこない。これはこれで面白いのだが、お話が全然違う。自転車でいい年越えた兄さん(サラリーマンでもいい)が帰ってきて、玄関をあがるとトントンと二階まで駆け上がり、息を切らしながら蝶の入った採収ボックスを眺めて、ほっと息をついてにこにこしている、そんな御話だ。映画で言えば、タイトル前の走り出しの一コマという感じがする。

 自分で勝手にお話をつくって、それを眺めて、その感じがするというのは、想像のその中の想像の感じとくるわけだから僕は妙な人間だ。でも、そんな感じがする。


 「二階屋で蝶を飼うよなおとこだった。」とすると語感としてはあまりよくないのだが、最初の想像に近い感じがでてくる(いつも感じですまないけれど)。その感じが正しいとすると(感じが正しいかどうかどうやったら判るんだろう?そもそもそんな感じが本当に在ったんだろうか?)、僕がこの詩が好きな感じがするという感じには、「二階屋」、「」、「飼う」、「おとこ」なんてのは全て道具立てではあるが、役者(=詩のよさ)じゃない。「なり」一つがイメージの流れを決定していることになる。僕の感じでは、「です」の時は時間が始まって行くのに、「なり」の場合は、時間が過去から始まって来るというより、今の時間と隔たりがあるというより、断絶さえある。(と書いてみて、ああ、なるほど死んでしまったおとこなんだろうと気付いた。)ところが、この「なり」は過去じゃない。


こういう違和感が手伝って辞書を引くことになる。つらつら辞書をみるに僕の解釈では断定ではなく伝聞ということになる。

二階屋で蝶を飼うよなおとこである/だったそうだ」

「そうだ」を「と言われている」というように置き換えられるなら複文構造になり話法になるから僕の知っている言語としては話はこじれる。古典日本語を僕は理解していないので識者の方に教えを請うしかない。ひとまずそう思っておこう。
ほう、「なり」にはこんな伝聞の意味もあるのだろうと驚いた。驚いたのは「なり」に驚いたんじゃない、「自分」にだ。

二階屋で蝶を飼うよなおとこなり

二階屋で蝶を飼うよなおとこです
二階屋で蝶を飼うよなおとこだった

と三つ並べて、これがなんか違うと思う人があれば僕は割に普通だと思う。そうだとすると、このなんか違うなあという感じを僕は「なり」に持っていて、それは伝聞と説明される感じだということになる。うまく説明はできないけれど、かなり微妙な感じの違いが解って使える言葉の範疇に入る。僕はそういう言葉は現代語なんじゃないかと思う。そんなのは分類上というよりも政治政策上の問題で興味がないが、もう日本に人生の半分以上もおらず、読み物といい、日本の古典などよりも外国語の方が多いだろうと思うこんな自分もこんな語感があるのかと驚いた。それで僕は下駄ばきにミニシガーなんぞ咥えてんだなと。




by m.qyi
早速、孤蓬さんからコメントをいただいた。



>二階屋で蝶を飼うよなおとこなり


>「なり」一つがイメージの流れを決定していることになる。


>つらつら辞書をみるに僕の解釈では断定ではなく伝聞ということになる。


残念ながら、文法上、この「なり」は伝聞ではなく断定です。

伝聞の「なり」は、活用語の終止形に接続し、それ以外の活用形や体言に接続することはありません。

一方、体言や活用語の連体形に接続するのは、断定の「なり」です。

この句の場合、「なり」は、「おとこ」という名詞、つまり体言に接続しているので、断定の「なり」ということになります。


伝聞「なり」と断定「なり」の用例としてよく引用されるのが、紀貫之の土左日記における次のフレーズ。


>をとこもすなる日記といふものをゝむなもしてみむとてするなり


冒頭の「をとこもすなる」の「なる」は伝聞「なり」の連体形、末尾の「するなり」の「なり」 は断定「なり」です。


「すなる」の「す」はサ変動詞「す」の【終止形】で「するという」という伝聞の意味、「するなり」の「する」は同じサ変動詞「す」の【連体形】で「するの
です」という断定の意味です。


ご参考になれば幸いです。

失礼しました。



非常に参考になりました。どうもありがとうございます。



ラベル:古月
posted by rudolfkirsch at 13:29| 北京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | Articles | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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