2009年12月17日

ラジオラリーインタビュー2(2)(ホロウ、ともの、北村)PGR-Rally Interview 2 (2)(horou, Tomono, Kitamura)

ラジオラリーインタビュー2(2)(ホロウ、ともの、北村)
PGR-Rally Interview 2 (2)(horou, Tomono, Kitamura)



H :

バンド
あ僕のやってるのはかなり変則的なものばかりですけど、音楽のライブとポエムリーディングのライブっていうのはまったく別モノですね。音楽がらみのライブ
はだいたい終わった時元気です。ハイになってるってやつで。朗読は疲れます。奪われます。内奥を喰い尽くされる感じです。空気も足りなくなって倒れます。
自分の詩だけ持って人前に立つっていうのは、これはもう剥き身ですからね。逃げもごまかしも出来ない。ただひたすらに詩を読むしかない。また、僕の詩は北
村さんご存じのようにああいったものが多いから
()あれは本当に消耗するんですよ。だけど、「そこで何を得ているのか」っていう部分にはどちらのライブにもたいして違いはないように思えますね。


から、僕いつも言うんですけど、詩って野性の花みたいなもんだと思うんですよね。土に埋まって咲いてるさまじゃなければいけない、そうじゃなければ詩であ
る必要もないんじゃなかろうかと。抜いちゃう人多いでしょ。生花みたいにしたり、フラワーアレンジメントな感じにしたり。でもそれだったら小説なりのある
程度形式があって完成が求められるものにすりゃいいじゃん、と。朗読にしたって同じことですよね。言葉ごとに型番つけてテクニックを振り分けるなら演劇に
すればいいじゃないって。

いや、演劇のそういうところも僕は嫌いじゃないんですけどね。そこには大変な努力があることも知ってるし。そこで出来上がるものがどんなに素晴らしいかも知ってるし。でも、「でも、詩でやることじゃないよね?」っていうと、僕は思います。
……熱く語り過ぎた()


K :

いえいえ、熱いの大歓迎ですよ。(笑)
確かに朗読ライブが終わった後のhorouさんって、担架が必要じゃないかってくらいに憔悴し切っていますよね。栄養剤注射します?ってくらいに。
お二人のお話を拝読していますと、「詩の存在意義」と、いうものについて改めて考えさせられます。その根源になるものについて、ボク自身の中の答えを出すことはできていませんけれども。ボク自身は、それを使って色々といじくりまわしてしまうところがありますしね。
それで、どうしてお二人からそうした言葉が出てきたのだろうか、ということを考えますと、お二人とも詩以外の創造性の方向の様なものを体験していて、ご存知だからこそ、なのかなということを感じずにはいられません。色々な方法を体験してきているからこそ、だからこそ「詩であること」の独立性を大切になされて
いるのではないか、と思うところです。

あ、今、rudolf kirschさんの方からなにやら届きましたよ。どれどれ・・・
ええと、どうやらラジオを聴かれた方のデータの様ですね。11月25日にオンエアされて、大体二週間ほど経っている今日(12月10日現在)ですけれども、その数、ざっとどんぷり勘定ですけれども175人!
手前味噌かもしれませんが、改めてネットラジオというものの懐の広さといいますか、可能性のようなものを感じずにはいられません。
さて、次回はいよいよとものさんの朗読となるわけですけれども。先に経験者語る、ではないですけれどもhorouさん。次回の朗読を迎えられるとものさんに何か一言いただけませんでしょうか?

H :

はい、えー、とものさんの朗読されてる感じというのは、YOUTUBEにあるひとつの動画でしか知らないので、現在進行形のとものさんを感じられることを楽しみにしております。
あとは、これからも詩を書き続けていてほしいということ、そんで、時々僕の詩を褒めてくだされば()
あとはそうね…PV見たいですね。とものさんの朗読PV
あれですよ、何度も言いますが予想以上に恥ずかしいですよ、ラジオ公開当日は!頑張ってください!

K :

(笑)ありがとうございます。
さて、horouさんからのエールを受けてとものさん、ご返答はこれいかに?

T :

PVですか。。。最近、動画ソフトをいじるのがちょっとした趣味になってきたので、いずれ作れるとよいですね。
あと、宣伝ぽくなりますが、来年1月にいただいている朗読の機会があり、そちらはwebで生中継されると思いますので、どうぞご覧ください。
そしていよいよやってくる自分の担当回ですが、敬愛する詩人であり、素敵な友人でもあるキキさんの詩を読ませていただきます。
読ませていただく詩をご本人が朗読されるのを聞いたことがあって、とてもすばらしくて、そこにどれだけ近づけるのかはわかりませんが、よい詩だな、とみなさんに感じていただけるととてもうれしいです。
個人的な今後の展開としては、いずれ一度はhorouさんにお会いしたい。いや、これは展開というよりも願望かもしれませんね。
で、お互いながーい詩を書く貴重な仲間でもありますから、やたら分厚い同人誌とか?売れないか。やたら長い朗読会とか?人が集まらないか
ともかく、今後も「蘇る金狼」のような匂いの詩を、楽しみにしてます!

K :

(笑)ありがとうございます。
お二人が会うときの状況に立ち会ってみたいものですね。その時には野根まんじゅう(高知土産)を三箱くらい包んで持って行きますので(笑)。
あと、ボクは追加で、horouさんには是非『ホロウ・the・ブートキャンプ』のDVDも出して欲しいす。(嘘)
さて、宣伝も少し入ったところで、そろそろ時間が迫ってまいりました。では、最後にこれももうお約束中のお約束なんですけれども、お二方とも、最後にこのラジオをご覧の皆様に、メッセージを一言!よろしくお願いいたします!

H :

えー
とそうですね、今回の対談は「詩」というジャンルが持つひとつのスタイルを明確に浮き彫りにしていると思います。熱情、衝動、そういったノン・コントロー
ルなものも詩の中にはちゃんとあるんだと。そしてそういう詩に、余計な飾りをつけずに朗読しようとしてる詩人なんてのもいるんだと。スタイルの前に来るも
のがたくさんあるんだってことを理解していただけたら嬉しいです。あと、
YOUTUBEにライブ動画をたくさん上げてますので、よかったら見てください。ポエトリーガーデンレディオラリー、まだまだ素敵な詩人さんが登場します、これからの展開をお楽しみに!ありがとうございました。


T :

このあとクリスマス当日にわたしの回はオンエア予定です。
お正月休みに、なんとなく聞いていただいて、年明けはなにか詩集でも読んでみようかな、と思っていただけたりするとうれしいです。
どうぞ、お楽しみに。
よろしくお願いいたします。

K :

はい、horouさん、熱いメッセージありがとうございます!今回はお疲れ様でした。そして、次回はいよいよとものさんによるキキさんの詩の朗読です。どの様な詩が、私達の聴覚を通して紹介されるのでしょうか?今から非常に楽しみですね。
それでは皆さん、今月末のポエトリーガーデンレイディオラリーでまたお会いいたしましょう。この度は皆さん、本当にありがとうございました。

H :

北村さん、司会お疲れさまでした!
とものさん、ありがとうございました!
ポエトリーガーデンを御覧の皆さま、ご縁があったらまたお会いいたしましょう、ホロウでした!ぺこり。
∀`) グバーイ

T :

長い対談でしたが、お読みいただきありがとうございました。
繰り返しですが、1225日オンエアの回も引き続きよろしくお願いいたします。
コメントなどもお寄せいただけますと幸いです。
今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。(三つ指突いてお辞儀)

 



(終)










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ラジオラリーインタビュー2(1)(ホロウ、ともの、北村)PGR-Rally Interview 2(1) (horou, Tomono, Kitamura)

ラジオラリーインタビュー2(1)(ホロウ、ともの、北村)
PGR-Rally Interview 2 (1)(horou, Tomono, Kitamura)

Poetry Garden Radio Rally 2”が1125日にがオンエアーされました。これは第一回目に北村守通さんを引き継いでhorouさんがとものさんのembracingを朗読されたものです。Horouさんのこの作品選択の狙いがどこにあり、それを受けるとものさんが御自分の詩の核心をどこに見据えているか、これからどのような延長線が引かれていくのか、またその対角線なるものはあるのか、どのような補助線を引けば詩が理解できるのか、第一回目の朗読者である北村さんが司会される透明なケント紙の上で今回の朗読をさまざまな視点から再考察した興味深い対談になっていると思います。

この第回2目の朗読の「抱きしめるたびに血を流す  ―「embracing」の、アフター・トーン ― 」は

http://poetrygarden.seesaa.net/article/133822210.html 
でお聞きになれますので是非お聞きになってみてください。

また、対談中にあるYOUTUBEに投稿された朗読は
とものさん:http://www.youtube.com/watch?v=rhW3WGMudB4
 

horouさんhttp://www.youtube.com/user/hoga9 
で見られます。合わせてご覧ください。
1125日のラジオ放送後、111日からほぼ2週間をかけ、horou(朗読)、ともの(作品)北村(司会)3人による収録後メール対談を行いましたのでその模様をお知らせいたします。(H:horou T:ともの K:北村守通)


K:

ポエトリーガーデンレイディオラリーをお聴きの皆様、こんにちは。北村守通です。

今回は、第二回にて朗読を担当されたhorouさん、作品「embracing」をご提供くださいました、とものさんをお迎えして、よりお話ができれば、と考えています。お二方ともお忙しいところありがとうございます。どうぞ宜しくお願いいたします。

最初に、お二方ともそれぞれのスタイルで活動をなされていて、お二人をご存知の方もリスナーの中にはいらっしゃるとは思うのですが、やはりこのネットラジオを通じて初めて知った、という方も少なからずいらっしゃるのではないか、と思います。ですので、定番中の定番なんですけれども、まずは簡単な自己紹介の様なものをいただけますと幸いです。お二方が、どの様なきっかけで詩を書き、朗読する様になり、そして現在はどの様な活動をなされているかをお聞きしたいと思います。

まずは前回の対談参加者がエスコート、ということで(笑)horouさんからお願いいたします。


H :

えーただいまご紹介にあずかりましたホロウでございます。

高知在住で、ネットを通じての詩作発表と、地元でたまに朗読ライブをやっております。
詩を書くようになったおおもとのきっかけというのはもう覚えていないんです。
小学生のころからなんかかんか書いていたように思います。
ホロウとしてはまだ始まったばかりだった魔法のiらんどで、気紛れにHPをつくったのがきっかけでした。携帯で手軽に出来る作品発表はなにかいな⇒詩、みたいな感じで。
その頃はリチャード・ブローティガンにはまっていて、露骨に真似た感じで短い詩を書いていたんですが、あっとういうまに文字数が多くなり
いまでは書いた詩が1000文字超えていなかったとき、自分は手を抜いてしまったのではないかと不安になってしまう、そんな有様の詩人です。
一番好きな小説はウィリアム・サローヤンの「ロック・ワグラム」です。
北村さん、とものさん、どうぞよろしくお願いします。


K :

ホロウさん、ありがとうございます。

「ロック・ワグラム」、メモメモ・・・今度、自分も読んでみたいと思います。
さて、お待たせいたしまして申し訳ございませんでした。今回の作品の作者のとものさんです。
とものさんはどういったきっかけで詩を書き、朗読するようになり、そして現在はどの様な活動をなされているのでしょうか?


T :

東京23区内で暮らしています。詩は、主に都内のオープンマイクや朗読会、自分の作品ブログで発表しています。
本を読むのが好きな子供で、そこから自然な流れで文章を書くこともが好きでした。
中学生の頃は文化祭の出し物の劇の脚本を書いたり、高校時代から小説を時々書いていました。
「ともの」になったのは、まだ去年(2008年)のことです。「自作詩の朗読をするのが夢」と冗談半分に時々口にしていたところ、「ポエトリー・リーディング」という言葉を、こんな大人になってから知りまして。
それから朗読作品をつくりたいこともあって、本格的な詩作に取り組んでいます。けれども、本来的には、朗読よりも「文字」のテキストを主体に活動するほうが向いているのかな、と常々思っています。
長くなってしまいました。
horouさんがいちばん好きな小説を挙げられたので、わたしも
うーーーん、難しいけれど、じゃあ、小池真理子の『恋』でお願いします!
ちなみに、「ともの」のアクセントなのですが、「と」にはなくて、平坦に呼んでいただけるとうれしいです。

K :

あら、とものさんって、改名されていたんですね。今、初めて知りました。(笑)アクセント!気づきませんでした。(あれ、大丈夫だったっけ?)
そういえば、ボク自身は、お二方ともお会いしたことがあって、お話もさせていただいているんですけれども、それぞれ別の土地でお会いして、ということでしたからなんかこうしてメールという形であれ三人でお話をさせていただいている、というのがとても不思議な感覚です。土地や時間という制約を越えて、お話ができるという環境が整ってきたというのは一人のアラフォ・・・としては未だに信じられないところがありますね。ハムや無線という存在が何故今なお根強い力を持っているのか、ということが改めてわかる様な気もします。
ところで、「ワタシの記憶が正しければ」お二方はお互いの顔も知らず、つまりお互いの声も知らない、という状況だったかと思います。今回、その『声』というヴェールがはがされました。ご自身の作品が、予測不可能な声によって音読される、ということになってまな板の上の鯉の状態だったかと思うんですが。実際、放送をお聴きになってみていかがでしたか?

T :

horouさんの朗読を聞いて」のまえにひとつ。ちょっとお話のしかたがわかりにくかったかもしれないのですが、改名したわけではないのです。それまでは、ノートの端に書いては捨て、を繰り返していた詩のようなものを、「ともの」という名前を使って書くようになった、ということです。
horouさんにはお会いしたことはないのですが、YouTubeで動画を拝見したことがあり、お顔も声も存じていました。
また、縁あってweb上でやりとりをしたこともあり、安心して作品をお預けすることができました。
それでも、オンエアを聴いて驚きました。詩のテキストは、音楽の楽譜ではないんだ、と見せつけられたようでした。
今回の「embracing」という作品は、勢いを持って書いたこともありますし、自分が読むなら、苦しいかんじで急いで読むだろうと思っていたからです。けれどhorouさんは、ゆっくり読んでくださいましたよね。
感情を抑えておそいテンポで読むことによって、むしろ凄みは増し、聴き手の側でも意味をとりやすいのではないか、と感じました。
テキストが楽譜ではない、と申しましたのは、「Allegro」とか、「Adagio」とか書いていないために、朗読においては本当に自由に速度を決められるのだな、と改めて気づかされたからです。
かといって、8分の6拍子のリズムをつけられたらすこし微妙な心持にもなりますし、淡々とされているのもありがたかったです。
horouさん、ありがとうございました。

K :

お名前の件のご説明、ありがとうございます。誤解していまして失礼いたしました。
それと、今は動画の配信が出来る、ということも全くもって盲点でした。
ところで、今、とものさんがおっしゃられた「テキストが楽譜ではない」と、いう点についてはなるほど、と思わされました。
その点についてはまた後ほど触れさせていただこうかと思いますが。さて、お待たせしました。horouさん、今回ネットラジオという媒体の中で、朗読とトークとなったわけですけれども、実際やってみていかがでしたでしょうか?

H :

実はですね、僕は中学、高校と友達数人でミニFM放送局(時代感じる単語だ)をやっておりまして、DJの真似ごとは初めてじゃなかったんですよ。なので、トークについても朗読についても、わりと、懐かしく進行することが出来たという感じです。
ひとつ勉強になったことと言えば、顔を見せない状態で詩を朗読する、という部分ですね、やはり。舞台で読むのなら、ナマの息づかいが伝わるわけだから、出来は度外視でもかまわないっていうのは極論ですけど、その時の息づかいが伝わればそれでいいみたいなところがあって。
しかし、ネットラジオというのはナマであってナマでない、みたいな、産地直送ではあるけれど真空パックで郵送、ぐらいのタイムラグはある、みたいな感じなわけですよ。てことは、これは暴走が許されない。ライブとは違って。より言葉そのものでなければならない、という場であるのだなという前回のトークで北村さんもそういった意味合いのことを言われてましたが、僕もやはりそういう感じですよね。
ただまあ、放送を実際に初めて聴いたときの、あのこっぱずかしい感じはまったく予想外でした!あれはなんなんでしょう、恥ずかしい写真をばら撒かれたみたいな気がしました()今はもう慣れましたけど。
とものさんの詩は、最初に目にした時から凄くインスピレーションがありましたので、朗読についてはいつもの自分の感じで読めるだろうなと。ゆっくり読んだのは、多分詩の中にある作者の眼の冷静さのせいでしょうね。確かに凄く激しさのある詩なんだけど、その激しさを見つめている眼がとても静かなんですよ。街角のビルを描写するみたいに自己の激情を描写している、という印象があるんですよね。

K :

確かにあのこっぱつかしさは予想外でしたね(笑)。自分が意識していなかったもの、というのがしっかりと残されていて、そしてそれを修正するための手段が全くない、ということもあるのでしょう(笑)。
さて、horouさんのとものさんの詩に対する、「食虫植物」という表現ですけれども、ここにきてやっと理解できた様な気がします。(激情と冷静さの同居)
そういう意味では、とものさんの作品、というものがhorouさんの持つ受信チャンネルに見事に当てはまっているのかもしれませんね。こうした出会いというのは
大変貴重だと思います。
ただ、その受信の仕方というものは、作者が必ずしも作者が想定しているものではない、と思いますけど。詩を創っている最中というのは、本人は観察者なのかもしれませんが、その観察の様子を観察しているのが読者という存在なのかもしれませんね。それが一番形となって現れるのが、こうした作者でない存在による朗読という形なのかもしれません。ですから、作者自身が朗読するというものとは別の発見がそこにあるのではないか、と思ったりします。
おっと、ちょっと空気が固まってしまいました・・・なんかこのままだと、どこかの進路指導の三者面談みたいなんで(笑)。少し、空気を入れ替えましょう。まぁ、折角三人でお話しているんですから。ちょっとハブアブレイク、ハブアキットカで。
お互い、WEB上で親交がある、とのお話なんですけれども、今回のラリーを通じて
あるいはそれ以外ででもなんでもいいです。お互いに相手に対して聞いてみたいなぁ、といった掻き立てられた好奇心と言いますか、なにかあったりしますか?
これはまずはとものさんに伺ってみましょう。

T :

聞いてみたいこと?あります!あります!(笑)
けれど、それは直接詩の話ではないので、またいずれこっそり聞くとして。
わたしは長い詩や散文詩を書く時は、どうしようもない気持ちで「キィー」と一気に狂い書き?して、機会あるごとに推敲して、むき出しになりすぎた部分に服を着せてやったりするのですが、
horouさんは、綿密にプロット的なものを立ててからお書きになるのですか?それとも即興的な部分も多いのでしょうか?
それと、前に少しhorouさんご本人にはお伝えしたことがあるのですが、わたしがhorouさんの詩に対して持っている印象は、「70年代」や「松田優作」なのです。
意識の根底に、そういうものはあったりしますか?

K :

(にんまり悪魔の微笑を浮かべて、無言でマイクをhorouさんに回す。)

H :

僕は、基本的に詩作はすべていきあたりばったりです。あらゆる表現の中で詩は
唯一投げっぱなしが許されるジャンルだと思ってて。読み返すことは読み返すんですが、誤字脱字のチェック程度ですね。「そのときディスプレイの前で何が起こったか」というドキュメントになれればいいな、と思ってます。もちろん、ひたすらスピードに乗って書くときと熟考しながら書くときと時間は様々ですけどね。行間取ったりしてる詩はだいたいじっくり書いたものです。
70年代、というのは間違いなくありますね。松田優作はほとんど知らないんですが。70年代っていう時代が持つ独特の臭みみたいなものに引かれることが多いみたいで。70年生まれなんで、胎内にいるみたいな気分になるのかなぁ。70年代って詩的じゃないですか、なんか。あとその、レコードで音楽を聞いてた世代というのは致命的にあるんじゃないか、と。曲と曲の間の細い溝に丁寧に針を置いて、カセットテープにダビングして好きな曲のコンピレーションとか作ってた世代ですから。いまだにそんなノリで生きてるんだと思います。
詩きっかけで出会った人はみんな、「トレンチコートを襟立てて着てそう」って言うんですよ、僕のことを()
じゃあ僕からも質問を。
とものさん、ご自分の詩が理想としてる形みたいなの、ありますか?

K :

(「トレンチコートを襟立てて着てそう」って思ったのボクだけでなくってちょっと安心。と、思いながら、とものさんにマイクを差し向け)

T :

ありがとうございます。
なるほど、なんとなく理解できてきたような気がします。
詩の形なかなか難しい質問ですね。
自分の詩は、日々生活する中での日記であるに過ぎないのです。
近しい人が見たら、「ああ、あのことね」と、メタファーも何もないストレートな。
その行為はこれからも続けてゆくのでしょうし、今後も「まあ、きれいなお花」ですとか
いうような詩は書かないでしょうね。
石川さゆりの「天城越え」のような情念を、枯れない限りは書こうかな、と。
ひとつ決めていることがあります。書いた詩を、朗読と言う形で声にして、聴覚に訴える時でも、常に「文字」でありたいです。
「音楽」や「芝居」になったりするのではなく、いつも「書かれたもの」としてそこに存在する詩であってほしい、そんなふうに考えています。
トレンチコートの下って、horouさんは裸なんでしょうか。
わたしは、エロい意味ではなくて、「裸エプロン」みたいだな、と自分のことを思ったりします。
そうそう、少し前には「ポエトリー界の美保純を目指す!」とほざいていたのですよ。
ロマンポルノ的な色の詩が書きたかったんだっけな、たしか。
そういう点では、わたしも実に70年代的なのかも。

K:

「ポエトリー界の美保純」って!
いや、でもそのロマンポルノ的な色の詩、というのは大変興味があります。エロスというと単純に「すけべ」で済まされてしまいそうなところがありますけれども、なんともいえない交錯であったり常識という仮面の脱ぎ捨てであったり、そういうことだと思ったりするんですよね。これはhorouさんの作品の中でも見えることがあったりして。そういった心の奥底に眠っているものの存在に気づき、言葉や何かしらの形で再現できる方々というのは、本当にすごいと思います。大抵の場合、やっぱり自分の「常識」というフィルターにかかって、存在に気付くことはできたとしても、形にできないことが多いのではないか、と思うんですね。
と、なると、ボクとしてもhorouさんのトレンチコートの下がどーなっているのか、大変興味のあるところなんですけれども(笑)。あと、ボクとしては、とものさんのおっしゃられた「書いた詩を、朗読と言う形で声にして、聴覚に訴える時でも、常に「文字」でありたいです。」と、いうところ、もう少し詳しくお話を伺いたいな、と思います。
ええと・・・どっちから・・・やっぱりここは、まずhorouさんのトレンチコートの下でショ!

H :

あー、日記なのですね。とものさんのもつ独特のスピード感はそこから来るのか
なぁ。感情のスタンプみたいな。押し花かな。
*> 「音楽」や「芝居」になったりするのではなく*
この感じ思うところあります。僕は演劇的な朗読を聞くと冷めちゃうほうなので。演劇してたんですけどね、いわゆる大衆演劇。ローカルな劇団ですけど。
なんというかナマの感情として舞台を眺めたときに、あまりにも合成保存料の香りがしてしまうというかそれで大衆演劇を辞めてちいさな劇場でひとり芝居などし始めた時と同じ感覚がいま、朗読をやってるときにあるんですよ。とものさんの言う意味合いとは少し違うかもしれないですけど。
ロマンポルノってアダルトビデオより生々しい感じしますよね。いや、そんなに見たことあるわけではないですけど(話を逸らすように)そういや「エクスタシー」って言葉はもともと、「世界の外に出る」という意味らしいですよ。漫画で読みました。
ちなみに、トレンチコートを開くと内臓がぼとぼと落ちる仕組みになってます。
こないだ現代詩フォーラムにそういう詩を置いたんですよ、ちょうど。「臓腑の風景」っていう詩なんですけどね。

K :

あ、耳が痛い・・・(笑)
horouさんがおっしゃっている「合成保存料の香り」というのは、実は最初にとものさんがおっしゃられていた「詩のテキストは、音楽の楽譜ではない」というところとも被ってくるところがあるのでは、と個人的には思ったりもします。
音楽の楽譜では、音のイントネーションは音階という方法で、言葉の長さについては音符で、といった形で状況設定を強制されるわけですよね。つまり、どこの団体が歌っても、基本的にある程度は同じ世界が描けるように指示がされている。
演劇は、演劇でト書きの部分の存在が実は非常に大きくて、やっぱりト書きによって作品がどの様に再現されるかが、ある程度は強制される。
だから、形としてはできあがるものは金太郎飴であるべきはずなんですよね。しかしそうなっていないのは、個人の能力や捉え方といった、再現性からすれば「誤差」というべき存在があるからなのでしょうけれども。
ところが、詩においては当然、そうした「ト書き」等といった存在は入っていない。
むしろ、「ご自由に書き込んでください」の状態だと思うんです。だから、「ト書き」が入ってしまったら、それはもう詩の朗読ではない、ということなんでしょうか?
ちなみに、ボクがたまにやるのは楽譜にしていませんので、音としての再現性がない状態です。だから音楽ではない、朗読だと自分では言っています。(苦)
ここについては、まず「書いた詩を、朗読と言う形で声にして、聴覚に訴える時でも、常に「文字」でありたいです。」というところについて詳しくお話を伺うことから、考えてみたいと思います。
いかがでしょうか、とものさん。この部分、もう少し詳しくお話していただけないでしょうか?

T :

わたしは、絵を描きたいわけでも、音楽を奏でたいわけでもなく、文章を綴ってゆくことがすきで、文章を書きたいのです。

ですので、もし、朗読を聞いた人から「音楽のようでした」と言われてもそれは本意ではありません。
北村さんがおっしゃられたように、再現性のない音として自然に発せられたもの、どうしようもなく叫ばれてしまったもののようなナチュラルなものとして朗読はありたいので、芝居じみたこともしたくない。
「身体性」とか、「フロウ」とかいう言葉を耳にすることもありますが、自分にはそういったものは必要ないと考えていて。
たしかに音の方がすんなりと入ってくるし、長時間の朗読会などにおいては、朗読者よりもミュージシャンをゲストに招いた方がメリハリもつくでしょう。だけど、どうもそれは詩人たちの側の卑屈さの裏返しでもあるのかな、と常々思っているのです。
詩だっておもしろいし、すごいのに、なかなか広まらないのは残念です。
自分の言葉は、あくまで口から発せられた文章でいてほしいし、朗読の技術ではなく、修辞法などを含めた「ことば」の持つ力で訴えてゆきたいと切に願っているのです。
 「常に『文字』でありたい」というのはこのような意味なのですが、少しでもおわかりいただけたでしょうか。
話が下手で。。。申し訳ないのですが。。。

K :

とものさん、ありがとうございます。
とものさんが、おっしゃっられたお話というのは、実は詩に限らない、と思うのですよ。ボクは釣りが好きなので、釣りの中でそうしたものとぶつかることがやっぱり多いんですけど。
世の中は、様々なツールが発展してきたおかげで、それぞれの世界が多様性を持ち始めてきていてもともと持っていた裾野というものが、もう足りないんじゃないか、というところに来ている様な気がします。趣味に対する総人口そのものはそれほど変わったとは思えないんですけどね。
点と線、線と面とが十分に繋がりきる前に、という印象を持っています。
これは、勘違いなのかも知れないんですけれども、そうした各々の行き場が拡がった結果、交錯する機会も増えているのではないか、と思ったりもします。
釣りを例えにしてしまいますと、マニアックな話になってしまいますので、止めて、(笑)食の話に置き換えてみますと、自分の菜園で葡萄を作ったとして、それをどう食すかという時に、確かに干葡萄にしてパンに入れて焼いてみる、というのも確かに方法の一つとしてある、けれどもその葡萄を何の手も入れずに、果物の葡萄として食してみることの方がとものさんにとっては大事なことなんだ、という風にボクとしては感じさせられました。
だんだん、時間は押してきていて大変恐縮なんですけれども、horouさんは朗読ライブも行われますし、バンド活動も行われていますけれども、朗読のライブと音楽のライブとの違いの様なものは何かあったりしますか?









(続く)
posted by rudolfkirsch at 23:54| 北京 | Comment(0) | TrackBack(0) | Essay | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月13日

ラジオラリーインタビュー1(1)(北村、ホロウ、rk) PGR-Rally Interview1(1)(Kitamura, horou, r.kirsch)


Poetry Garden Radio Rally”が1025日にがオンエアーされました。これはその度の朗読者が次の朗読者を5回に渡って紹介し朗読していくシリーズです。それぞれの詩そのものがもつ味わいに加えて、朗読者がその詩を選択していくアングル、また、その朗読の仕方が発するスペクトルと複雑な作品の様相が展開され...るかもしれません。

そのようなわけで参加された方の様々な思いがあるのではないかと思います。

1回目は、「北村守通−horouを打つ」が1025日に放送されました。是非ラジオ放送をお聞きになってみてください。

このラジオ放送後の111日から8日まで参加者である北村(朗読)horou(作品)、rudolfkirsch(PGR)による収録後メール対談を行いましたのでその模様をお知らせいたします。 (K:北村守通 H:horou R:rudolfkirsch


(1)

R:北村さん、horouさんの「毎日には特別することがない」の朗読お疲れさまでした。いろいろな方から大変素晴らしい朗読だったと感想をいただきました。お一人はame*さんで掲示板にも書き込みをしていただきました。他にもメイルをいただきました。

さて、北村さんとしては、どうだったんでしょうか。御自分の朗読は満足されていますか。

K:お二方とも、どうぞ宜しくお願いいたします。(笑)

座布団とか飛んできたりしやしないかと、冷や冷やだったんですけど、温かいご感想とかいただきまして、本当に嬉しく思っています。
ameさんが、感じていらっしゃった通り、ボクは大学時代に合唱をやっていた流れか ら、同じ『舞台』という世界の演劇から何か得られるものはないだろうか、と大学内の演劇サークルの門を叩いていた、ということはあったりしました。で、この時から滑舌に不安を持ったままだったりしたこともありまて・・・自分では意識して口をメリハリつけて動かしているつもりだったんですが、なかなかおい それとはいかないものだなぁ、ということを再認識させられましたね。それと、やはり体に動きをつけたり、それは例えば、単純に目線の動きだとかでもいいんですけれど、そういったものが使えないので(朗読している分には、一人でやってましたけど)、言葉一本勝負なんだ、という難しさも感じたところであったりします。
朗読に際して、詩のバックグラウンドは、ということがやはり付きまとったんですけれども、これはもしかするとホロウさんには大変失礼だったかもしれないんですが、ホロウさんを考えるのではなく、ホロウさんの描かれた世界に自分が置かれた らどうだろうか、ということを考えて、そこで生活してみました。(もちろん妄想ですけれど。)「この人は何故?」ではなく、「ここで生活したら、自分はどんな風になってしまうんだろうか?」という風に、ボクは読まざるを得ないところがありまして、そういうものを出すことはできたんじゃないかな、とは思っています。満足、といいますと、自分の表現に自信があるのか、ないのか、という点に見られがちかもしれませんが、今回の朗読はよりホロウさんという人物を自分に当てはめてみるきっかけになりましたし、自分の中、あるいは自分を支えてくれている様々なことがらについて、発見できたり、再確認ができました。そういう意味でとても満足しています。

R:あんまり、そんな風に謙遜されると、僕が一番困ります。読めなくなっちゃう。でも感動されたリスナーの方は多かったんじゃないでしょうか。25日の真夜中にリリースしたんですけれど、丸1週間の統計を見ますと、2543hits2617hits2723hits288hits2910hits309hits3110hits115hitsありました。トータルで135 hitsがありました。最初の日曜日ばかりか、出勤日の月曜日と火曜日のリスナーも多かったですし、週が一周りして1日の日曜日になりまして、また、15 hitsを叩きましたから。凄いと思います。こういうと苦笑されるかもしれませんが、30分にわたるトークですからね。南からいきますと、鹿児島、山口(1日)、日本の首都である?高知、愛媛(人数が多いんですが、御親戚でもいらっしゃいますか?)、香川、大阪、愛知(1日)、東京、神奈川、埼玉、栃木、青森と12県にまたがります。1日になって2県が加わっていることからも判りますように、新しいリスナーも多くいらっしゃるようですよ。実はこの統計は全ての県が拾える訳ではないようなので、今挙げられなかった県からのリスナーも多くいらっしゃる筈なんです。僕なんか遠地に住んでいますので、こういう統計を見させていただけるのは非常に嬉しいですね。

それから、ね、北村さんの朗読があってから、他のラジオの番組も続けて聞かれるリスナーさんが少なからずいらっしゃるんです。僕は北村さんにお願いして良かったと本当に思いましたね。よく詩の良し悪しを議論して挙句の果てに人気投票なんかにその基準を頼るようなんですが、僕は愚かだと思います。100人の人が一人一人ある詩に一票を投じれば100票にはなるわけないじゃないか、と思います。100の集合体はその価値としては常に1ですよ。恋人が5人いる人が仲のいいカップルより、大家族が母子家庭より幸せだなんていう人はいないと思うのですけれど、詩になるとそんなこという人がいますよね。しかし、100人が愛を投じる詩は1票以上の価値は決してないのだけれど1票以下になる可能性は大いにあるので、北村さんの朗読には自分の1票は果たして本当に1票なのかと迫ってくるものがあり、僕は大変反省させられましたね。
ま、北村さんは勝手にそうやって真摯に読んでいらっしゃってるだけだとおっしゃると思いますけれど、どうなんでしょうか、読まれた側の気持ちとしては?読んだ後の祭りって訳でもないと思うんですが、horouさんとしては?

H:あ、どうも、よろしくお願いします〜。

そうですね、一応座布団は用意しておいたんですけれど(笑)、凄く予想外のアプローチで。たいへん興味深く拝聴いたしましたっていう感じです。
北村さんの朗読で一番印象的なのは、「カラフル」だという部分ですね。あー僕の詩にもこんなにいろんな色が付けられるんだなぁ、と思って。僕が自分で読むと色が付かないんですよ、モノトーンになる。僕は自分の詩や言葉をあまり信用していないところがあって、書くにも読むにもインスピレーション一発勝負、みたいなところがあるんですけど、北村さんはひとつひとつの場面を本当に噛み砕いて、ほんとに北村さんなりの詩世界を構築して読んでくださっているなぁ、という。映画でいうと非常に綿密なカット割りで丁寧に構成されてる感じですよね。僕の場合は引いて長回しみたいな感じ。それから、音楽的だなぁと思いましたね。なんかこう、譜面に起こしたものを読んでるみたいな抑揚があるなぁと思って。押しと引きの間合いとかね、なにか、北村さんが歌ってるときの感じが重なるような印象がありました。
ちなみに、僕も最初3日ぐらい続けてアクセスしましたよ。3日目に、(あ、ダウンロードすりゃいいんだ)とようやく思いついて(笑)いまもちょくちょく聴いてます。
なんでしょうね、なんか、自分が書いた詩だと気がつかないんですよ、なかなか。そういや俺の詩だっけみたいな瞬間がいまだにあります。
あ、お気に入りです、もちろん。

R:あれっ?horouさんだから、「なんだこのやろ!」ってくるのかなって思ったんですが。バーボン系のハードボイルドなんですよね、北村さんによると...そういう意味のハードボイルドじゃないっておっしゃってたんですっけ。御免なさい。

お二人が御満足だっていうんですから僕としては言うことないんですが、一つ質問があります。従来、朗読というのは自作詩を読むことが多いと思うんですが、Poetry Garden Radioではこのラリーに限らず、“他人の作品“を“勝手に“読むというのをモットーにしてるんです。作者や作品の意図を組んで読むということはあまりしていないんです。例えば、horouさんは女性詩人の詩人を読まれるそうですが、バーボンにトレンチコートでご自由にというのがPoetry Garden Radioの今までのやり方です。そういうPoetry Gardenの在り方をどう思いますか。horouさんは読まれた方でよりセンシテイヴだと思いますので、horouさんに先にお聞きしたいとおもいます。いかがでしょうか、こういうやり方については。

H:いや、僕そういうキャラではないです(笑)

バーボンは唯一好きなお酒ですけど。
> そういう意味のハードボイルドじゃないって
そういう感じでしたね(^^)
僕の詩観みたいな話になっちゃうんですけど、そもそも詩って唯一、「投げっぱなし」が許される表現だと思うんですよ。だから、僕の詩には意図すらないんです。勝手に書いて出してるから、勝手に読まれちゃうのももちろんOK。ピーナッツみたいなもんです。つまみたいときにつまんで食べてもらって、うまいまずいは適当に決めてくださいねみたいな。だから、Poetry Garden Radioのコンセプトっていうのは、僕にとっては自然な詩、朗読の在り方、ですね。
なので今回朗読させていただいた詩についても、特に作者さんのことを考えて云々、ということはありませんでしたね。「僕は感じた、だから読む」っていうだけ。
ご自由に、っていう感覚がなければ、詩はとても窮屈なものになってしまうと思います、詩論なんてない方がいいんだと。詩論的な方向をつきつめることがストイックだと思ってる方はたくさんおられるみたいですけど(笑)

R:う〜ん。耳が痛いなあ。いや、僕ストイックなんですよ。ですからね、女性が薄いお召し物なんか着ていらっしゃるのを見ると心が揺らぐんです。

ただ、修道院生活をしていますからhorouさんの作品は響くんです。今も読み続けていますけれど。最初はそれこそ夢中で読みましたね。ピーナッツ型の方は確かに多いかもしれませんが、horouさんのような考え方をする方というのはどうしても短くなるんじゃないでしょうか。horouさんの作品は長いでしょう。大伽藍に響くグレゴリオ聖歌というと大袈裟ですが、そんな感じがします。いずれにせよ、ミニスカートを凌駕するものがあったんです、僕には。どうも、ありがとうございます。
北村さんは、どう思いますか。今のようなスタイルの朗読、しかも、ラジオでやるというのは。ちょっとコメントされていましたが、ライブじゃないわけですから、body languageは使えませんし...

K:つ、強いなぁ、ホロウさん!(笑)

え?、あ、私の番ですね。はい。
そうそう、朗読のスタイルのお話でした。
個人的な話になってしまうんですけれども、ボクは詩との出会いというのが、合唱との出会いでもあったりしました。
で、以前、別のところでも書いたりしたんですけれども、作者でないのに「何故作者は?」ということを考えてしまうわけなんですよ。で、考えて考えた末に脳裏をよぎったのが「俺達は作者じゃない」っていう決定的な事実であったりして、そこに限界みたいなものを感じて(その時は)、じゃぁ、自分の言葉は自分で作らなくては、となっていったんですね。ところが、いざ自分が自分の作品で朗読を繰り返していったときに違和感を感じるようになっていってしまったんですね。と、いうのは自分の作品だから、その流れみたいなものは知っている。いや、 知っているからこそ他の可能性を考える前にその流れに乗ってしまう。だとしたら、自分の作品の朗読ってなんだ?と。テキストを単純に三次元化する変換だけで終わりなのか?と。もちろん、そうならずに自分の作品に対して新たに構成しなおせる方もいらっしゃいます。けれども、ボクにはそれはできなくって、少なくともボクにとっては、作品の作者と朗読者とはまったく別の存在だからこそ意義があるんじゃないかなぁ、と思えるようになってきたんです。自分とは関連のないものだからこそ、合唱曲のメンバーではないんですけれども、数少ない言葉を色々な方向につなぎ合わせてみる、という『創造』を行うわけですから。ですから、ボクは、詩の作者ではないまったくの第三者が朗読をする、ということは極めて重要だと思うんですね。
変に堅苦しすぎる、専門用語的な批評よりも、この第三者による朗読というものは作者にも朗読者にも、聴く人にも様々な可能性だとか、そういうものについて考えさせるのではないか、と思ったりします。
あと、ネットラジオという媒体を用いて朗読を行う、ということですけれども、目からうろこが落ちましたね。
東京にいる時は、朗読が行われるイベントというものを探すのに苦労しなかったわけで

(ここまでの相互情報の検索が行えるように、ネットワーク作りを確立して来た先人達には、本当に頭が下がる思いです。)すけれども、高知では「朗読のイベ ント」それも詩、だなんて、ボクなんかにとっては「秘密結社」状態だったりして。いや、本当は同人という形で色々と行われているんでしょうけれども、そうした情報なんかもなかなか横には広がってこない印象があるわけです。開催したら開催したで、どういう風にお客さんを呼べばよいかもわからないし、実際、お客さんも居ない(笑)。

でも、ネットラジオって、結局土地の制約もないし、下手をすれば時間の制限もないでしょう。(つまり、開催日や時間を逃しても聴きにくることができますしね。)最初に、ルドルフさんがおっしゃってましたけれど、いろんな土地からそれこそなんの制約もなく(機器の制約はありますが)聴きにきていただけることができるんですよね。15人もお客さん居たら、もうワハハハ状態なのに、それが連 日、だなんてこれまでのリアルの北村の朗読では考えられません(笑)。
それと、リアルで朗読をする、ということは言葉のしゃべり方だけでなく体の動き、というのも一つの大事な要素となりますよね。これは仕方のないことだと思います。だって、聴いていらっしゃる方々の視覚も活きているんですから。他の五感にも作用しうる何かが出始めるとすごいことになるんでしょうけれども。でも、ネットラジオという媒体では、その視覚を封じられる形ですよね。と、いうことはもう言葉一本勝負になるわけであって、だからこそ考えるものだとか、発見があるんじゃないかと思います。制約というのは、決して視野を狭めるものではないと思うんですね。むしろ、視野を広めるものだと、ボクは思っています。

R:北村さん、Poetry Garden Radio Stationの編集長なさいますか?ちゃかしてごめんなさい。色々ご示唆に富むお言葉は肝に銘じておきます。お二人とも好意的にPoetry Gardenを見てくださって心から感謝しています。

今、偶然だと思いますが詩人と詩作品、つまり作者の立場からご意見をおっしゃったんですが、もう一つの観点、つまり、朗読者(出演者)或いは編集者(制作者)の観点から見たご意見をお伺いしたんですが...わかりませんか、僕の言っていること...。つまり、このラジオの形態がね、トークショーでしょう。時間的に見たら、トーク7割、朗読3割の割合ですよ。朗読の時間はもっと少ないかもしれませんね。
おまけに、こうやって収録後の雑談までやってるんですから。
どうですか、そこのところ?いろいろご意見を言っていただいた北村さんに続けてうかがいますが、ショーとまでは言わないにせよ、「詩の朗読」以外の時間は長いですよ。どの放送も。こういうあり方っていうのは問題点あるんじゃないですかね。

K:ええと・・・(ばりぼり・・・バターピーナッツを隠れて食べていたので焦っている・・・「編集長」の言葉にむせる!)

あ、ホロウさんがご自身の作品の、読者や表現者に対する位置づけとしてピーナッツを例えに使われていましたから、ちょっとピーナッツを使ってお話してみましょう。
誰かとお酒を飲んでいて、つまみにピーナッツ出したとします。で、その時にただお皿に入れて出して、そりゃぁそれでいいんですけれどね、「このピーナッツさぁ、友達の農家が送ってきてくれたやつなんだよ。で、そいつがさぁ・・・」だなんて そのピーナッツにまつわるお話が一緒に出されたらどうでしょう。なんだかそれまでただのピーナッツが、また別の味わいを持ったりするじゃないですか。ピーナッツの味が拡がるのは一瞬なんですけれども、こうしたお話があるとその拡がり方もちょっと違ってくるんじゃないのかなぁ、と思ったりします。で、朗読の前のトークというのは、まさにこのピーナッツを出した時にする小話そのものだと思うんですよね。
もちろん、その配分だとかは考えなくてはいけない点もあるんでしょうけれども、少なくとも今までの放送におけるルドルフさんのトークの長さというものは、「長い」と感じさせるものではないと思いますよ。
むしろ、このトークというのも、作品から派生していった二次的な創作といえるんじゃないでしょうか?
正直、今までのルドルフさんのトーク、ボクは大好きなんですよね。
で、十分に聴く心があったまったところで(聴くことの準備運動が終わったところで)朗読を聴くことができるわけで。
あと、朗読するものが長い、例えば小説の朗読だったとしたりしたらどうでしょう?
朗読は15分くらい、トークはやっぱり長くて10分くらいになると思うんですよ。
つまり、トークの時間というのはそんなに変えられるものではないんじゃないかな、と思います。ただ、詩という一般的に短いものを読んでいるので、トークと朗読の時間比が7対3くらいの割合になっているだけだと思いますけど。




(つづく)














posted by rudolfkirsch at 09:28| 北京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | Essay | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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