2009年11月25日

P.G.R. Rally 2: Horou

P.G.R. Rally 2: Horou


「抱きしめるたびに血を流す  ―「embracing」の、アフター・トーン ― 」


真摯な思いは時々、いや、それは僕らが考えているよりも結構頻繁に、
決定的な断絶というものを生むことがある。


人間の身体が個体である以上、決して交わらない領域というものが、

それは例え肉親であろうと必ず存在する。


その領域にこだわろうとすれば必ず人は孤独になる。その領域にこだわ

ることはある意味で自殺行為だ。そこにこだわってしまうのは自分そ

のものなのに、自分である限りその領域に立ち入ることは出来ないから

だ。


硬質ガラスを素手で叩き割ろうとしているみたいなものだ。


embracing」はそんな衝動の後に痛んだ拳から流れた血が、冷たい床

を鳴らす音に似ている。そこに漂うトーンは、まさしく鍾乳洞の奥深く

で闇を映す地下水のそれだ。


実はこの詩にはふたつのヴァージョンがある。


ひとつめは、彼女のミクシィで発表されたものだ。その詩を見たとき、

僕の中に浮かんだイメージは火だった。いや、横尾忠則が用いる赤、と

でも言った方が正しいだろうか。


ふたつめは、僕がこの詩を読みたいとオファーをしたのち、承諾してく

れた彼女が推敲してくれたもので、僕が朗読したのはこちらのヴァージ

ョンだ。


この詩に目をつけたのも、あとのヴァージョンを読むと決めたのもほと

んどインスピレーションのようなもので、読むことそれ自体にはまる

で不安はなかった。自慢じゃないが、一発OKだ。なぜだろう?わから

ない。でも本当に何の苦労もなく、僕はこの風景の中に溶け込むことが

出来たのだ。


と、ここまで書いて投げっぱなしで終ろうと思った時、数年前とある詩

誌に作品を寄せた時、自己紹介のスペースに「鍾乳洞のような心のもち
ぬし」というフレーズを用いたことを不意に思い出したのだった。


…ちょっと隣の鍾乳洞でも覗いてみるかな。焦げた化繊と甘い唾液の匂

いがしたら、もしや…。




p,s.


m.qyiさん、北村さん、そしてとものさん

そしてこの回に耳を傾けてくれたすべての方々に。
どうもありがとう、センキュー、センキューベリマッチ、またいつか。

 



朗読された詩人 : ともの 

朗読された作品 : embracing

 

Blog:Nothing Compares 2...

http://tomonon.exblog.jp

http://blog.goo.ne.jp/tomo_meronpan/ (but precariously


 

朗読とトーク : horou

 

Blog:不定形な文字が空を這う路地裏

http://gold.ap.teacup.com/horou/



ラベル:horou ともの
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2009年11月13日

ラジオラリーインタビュー1(1)(北村、ホロウ、rk) PGR-Rally Interview1(1)(Kitamura, horou, r.kirsch)


Poetry Garden Radio Rally”が1025日にがオンエアーされました。これはその度の朗読者が次の朗読者を5回に渡って紹介し朗読していくシリーズです。それぞれの詩そのものがもつ味わいに加えて、朗読者がその詩を選択していくアングル、また、その朗読の仕方が発するスペクトルと複雑な作品の様相が展開され...るかもしれません。

そのようなわけで参加された方の様々な思いがあるのではないかと思います。

1回目は、「北村守通−horouを打つ」が1025日に放送されました。是非ラジオ放送をお聞きになってみてください。

このラジオ放送後の111日から8日まで参加者である北村(朗読)horou(作品)、rudolfkirsch(PGR)による収録後メール対談を行いましたのでその模様をお知らせいたします。 (K:北村守通 H:horou R:rudolfkirsch


(1)

R:北村さん、horouさんの「毎日には特別することがない」の朗読お疲れさまでした。いろいろな方から大変素晴らしい朗読だったと感想をいただきました。お一人はame*さんで掲示板にも書き込みをしていただきました。他にもメイルをいただきました。

さて、北村さんとしては、どうだったんでしょうか。御自分の朗読は満足されていますか。

K:お二方とも、どうぞ宜しくお願いいたします。(笑)

座布団とか飛んできたりしやしないかと、冷や冷やだったんですけど、温かいご感想とかいただきまして、本当に嬉しく思っています。
ameさんが、感じていらっしゃった通り、ボクは大学時代に合唱をやっていた流れか ら、同じ『舞台』という世界の演劇から何か得られるものはないだろうか、と大学内の演劇サークルの門を叩いていた、ということはあったりしました。で、この時から滑舌に不安を持ったままだったりしたこともありまて・・・自分では意識して口をメリハリつけて動かしているつもりだったんですが、なかなかおい それとはいかないものだなぁ、ということを再認識させられましたね。それと、やはり体に動きをつけたり、それは例えば、単純に目線の動きだとかでもいいんですけれど、そういったものが使えないので(朗読している分には、一人でやってましたけど)、言葉一本勝負なんだ、という難しさも感じたところであったりします。
朗読に際して、詩のバックグラウンドは、ということがやはり付きまとったんですけれども、これはもしかするとホロウさんには大変失礼だったかもしれないんですが、ホロウさんを考えるのではなく、ホロウさんの描かれた世界に自分が置かれた らどうだろうか、ということを考えて、そこで生活してみました。(もちろん妄想ですけれど。)「この人は何故?」ではなく、「ここで生活したら、自分はどんな風になってしまうんだろうか?」という風に、ボクは読まざるを得ないところがありまして、そういうものを出すことはできたんじゃないかな、とは思っています。満足、といいますと、自分の表現に自信があるのか、ないのか、という点に見られがちかもしれませんが、今回の朗読はよりホロウさんという人物を自分に当てはめてみるきっかけになりましたし、自分の中、あるいは自分を支えてくれている様々なことがらについて、発見できたり、再確認ができました。そういう意味でとても満足しています。

R:あんまり、そんな風に謙遜されると、僕が一番困ります。読めなくなっちゃう。でも感動されたリスナーの方は多かったんじゃないでしょうか。25日の真夜中にリリースしたんですけれど、丸1週間の統計を見ますと、2543hits2617hits2723hits288hits2910hits309hits3110hits115hitsありました。トータルで135 hitsがありました。最初の日曜日ばかりか、出勤日の月曜日と火曜日のリスナーも多かったですし、週が一周りして1日の日曜日になりまして、また、15 hitsを叩きましたから。凄いと思います。こういうと苦笑されるかもしれませんが、30分にわたるトークですからね。南からいきますと、鹿児島、山口(1日)、日本の首都である?高知、愛媛(人数が多いんですが、御親戚でもいらっしゃいますか?)、香川、大阪、愛知(1日)、東京、神奈川、埼玉、栃木、青森と12県にまたがります。1日になって2県が加わっていることからも判りますように、新しいリスナーも多くいらっしゃるようですよ。実はこの統計は全ての県が拾える訳ではないようなので、今挙げられなかった県からのリスナーも多くいらっしゃる筈なんです。僕なんか遠地に住んでいますので、こういう統計を見させていただけるのは非常に嬉しいですね。

それから、ね、北村さんの朗読があってから、他のラジオの番組も続けて聞かれるリスナーさんが少なからずいらっしゃるんです。僕は北村さんにお願いして良かったと本当に思いましたね。よく詩の良し悪しを議論して挙句の果てに人気投票なんかにその基準を頼るようなんですが、僕は愚かだと思います。100人の人が一人一人ある詩に一票を投じれば100票にはなるわけないじゃないか、と思います。100の集合体はその価値としては常に1ですよ。恋人が5人いる人が仲のいいカップルより、大家族が母子家庭より幸せだなんていう人はいないと思うのですけれど、詩になるとそんなこという人がいますよね。しかし、100人が愛を投じる詩は1票以上の価値は決してないのだけれど1票以下になる可能性は大いにあるので、北村さんの朗読には自分の1票は果たして本当に1票なのかと迫ってくるものがあり、僕は大変反省させられましたね。
ま、北村さんは勝手にそうやって真摯に読んでいらっしゃってるだけだとおっしゃると思いますけれど、どうなんでしょうか、読まれた側の気持ちとしては?読んだ後の祭りって訳でもないと思うんですが、horouさんとしては?

H:あ、どうも、よろしくお願いします〜。

そうですね、一応座布団は用意しておいたんですけれど(笑)、凄く予想外のアプローチで。たいへん興味深く拝聴いたしましたっていう感じです。
北村さんの朗読で一番印象的なのは、「カラフル」だという部分ですね。あー僕の詩にもこんなにいろんな色が付けられるんだなぁ、と思って。僕が自分で読むと色が付かないんですよ、モノトーンになる。僕は自分の詩や言葉をあまり信用していないところがあって、書くにも読むにもインスピレーション一発勝負、みたいなところがあるんですけど、北村さんはひとつひとつの場面を本当に噛み砕いて、ほんとに北村さんなりの詩世界を構築して読んでくださっているなぁ、という。映画でいうと非常に綿密なカット割りで丁寧に構成されてる感じですよね。僕の場合は引いて長回しみたいな感じ。それから、音楽的だなぁと思いましたね。なんかこう、譜面に起こしたものを読んでるみたいな抑揚があるなぁと思って。押しと引きの間合いとかね、なにか、北村さんが歌ってるときの感じが重なるような印象がありました。
ちなみに、僕も最初3日ぐらい続けてアクセスしましたよ。3日目に、(あ、ダウンロードすりゃいいんだ)とようやく思いついて(笑)いまもちょくちょく聴いてます。
なんでしょうね、なんか、自分が書いた詩だと気がつかないんですよ、なかなか。そういや俺の詩だっけみたいな瞬間がいまだにあります。
あ、お気に入りです、もちろん。

R:あれっ?horouさんだから、「なんだこのやろ!」ってくるのかなって思ったんですが。バーボン系のハードボイルドなんですよね、北村さんによると...そういう意味のハードボイルドじゃないっておっしゃってたんですっけ。御免なさい。

お二人が御満足だっていうんですから僕としては言うことないんですが、一つ質問があります。従来、朗読というのは自作詩を読むことが多いと思うんですが、Poetry Garden Radioではこのラリーに限らず、“他人の作品“を“勝手に“読むというのをモットーにしてるんです。作者や作品の意図を組んで読むということはあまりしていないんです。例えば、horouさんは女性詩人の詩人を読まれるそうですが、バーボンにトレンチコートでご自由にというのがPoetry Garden Radioの今までのやり方です。そういうPoetry Gardenの在り方をどう思いますか。horouさんは読まれた方でよりセンシテイヴだと思いますので、horouさんに先にお聞きしたいとおもいます。いかがでしょうか、こういうやり方については。

H:いや、僕そういうキャラではないです(笑)

バーボンは唯一好きなお酒ですけど。
> そういう意味のハードボイルドじゃないって
そういう感じでしたね(^^)
僕の詩観みたいな話になっちゃうんですけど、そもそも詩って唯一、「投げっぱなし」が許される表現だと思うんですよ。だから、僕の詩には意図すらないんです。勝手に書いて出してるから、勝手に読まれちゃうのももちろんOK。ピーナッツみたいなもんです。つまみたいときにつまんで食べてもらって、うまいまずいは適当に決めてくださいねみたいな。だから、Poetry Garden Radioのコンセプトっていうのは、僕にとっては自然な詩、朗読の在り方、ですね。
なので今回朗読させていただいた詩についても、特に作者さんのことを考えて云々、ということはありませんでしたね。「僕は感じた、だから読む」っていうだけ。
ご自由に、っていう感覚がなければ、詩はとても窮屈なものになってしまうと思います、詩論なんてない方がいいんだと。詩論的な方向をつきつめることがストイックだと思ってる方はたくさんおられるみたいですけど(笑)

R:う〜ん。耳が痛いなあ。いや、僕ストイックなんですよ。ですからね、女性が薄いお召し物なんか着ていらっしゃるのを見ると心が揺らぐんです。

ただ、修道院生活をしていますからhorouさんの作品は響くんです。今も読み続けていますけれど。最初はそれこそ夢中で読みましたね。ピーナッツ型の方は確かに多いかもしれませんが、horouさんのような考え方をする方というのはどうしても短くなるんじゃないでしょうか。horouさんの作品は長いでしょう。大伽藍に響くグレゴリオ聖歌というと大袈裟ですが、そんな感じがします。いずれにせよ、ミニスカートを凌駕するものがあったんです、僕には。どうも、ありがとうございます。
北村さんは、どう思いますか。今のようなスタイルの朗読、しかも、ラジオでやるというのは。ちょっとコメントされていましたが、ライブじゃないわけですから、body languageは使えませんし...

K:つ、強いなぁ、ホロウさん!(笑)

え?、あ、私の番ですね。はい。
そうそう、朗読のスタイルのお話でした。
個人的な話になってしまうんですけれども、ボクは詩との出会いというのが、合唱との出会いでもあったりしました。
で、以前、別のところでも書いたりしたんですけれども、作者でないのに「何故作者は?」ということを考えてしまうわけなんですよ。で、考えて考えた末に脳裏をよぎったのが「俺達は作者じゃない」っていう決定的な事実であったりして、そこに限界みたいなものを感じて(その時は)、じゃぁ、自分の言葉は自分で作らなくては、となっていったんですね。ところが、いざ自分が自分の作品で朗読を繰り返していったときに違和感を感じるようになっていってしまったんですね。と、いうのは自分の作品だから、その流れみたいなものは知っている。いや、 知っているからこそ他の可能性を考える前にその流れに乗ってしまう。だとしたら、自分の作品の朗読ってなんだ?と。テキストを単純に三次元化する変換だけで終わりなのか?と。もちろん、そうならずに自分の作品に対して新たに構成しなおせる方もいらっしゃいます。けれども、ボクにはそれはできなくって、少なくともボクにとっては、作品の作者と朗読者とはまったく別の存在だからこそ意義があるんじゃないかなぁ、と思えるようになってきたんです。自分とは関連のないものだからこそ、合唱曲のメンバーではないんですけれども、数少ない言葉を色々な方向につなぎ合わせてみる、という『創造』を行うわけですから。ですから、ボクは、詩の作者ではないまったくの第三者が朗読をする、ということは極めて重要だと思うんですね。
変に堅苦しすぎる、専門用語的な批評よりも、この第三者による朗読というものは作者にも朗読者にも、聴く人にも様々な可能性だとか、そういうものについて考えさせるのではないか、と思ったりします。
あと、ネットラジオという媒体を用いて朗読を行う、ということですけれども、目からうろこが落ちましたね。
東京にいる時は、朗読が行われるイベントというものを探すのに苦労しなかったわけで

(ここまでの相互情報の検索が行えるように、ネットワーク作りを確立して来た先人達には、本当に頭が下がる思いです。)すけれども、高知では「朗読のイベ ント」それも詩、だなんて、ボクなんかにとっては「秘密結社」状態だったりして。いや、本当は同人という形で色々と行われているんでしょうけれども、そうした情報なんかもなかなか横には広がってこない印象があるわけです。開催したら開催したで、どういう風にお客さんを呼べばよいかもわからないし、実際、お客さんも居ない(笑)。

でも、ネットラジオって、結局土地の制約もないし、下手をすれば時間の制限もないでしょう。(つまり、開催日や時間を逃しても聴きにくることができますしね。)最初に、ルドルフさんがおっしゃってましたけれど、いろんな土地からそれこそなんの制約もなく(機器の制約はありますが)聴きにきていただけることができるんですよね。15人もお客さん居たら、もうワハハハ状態なのに、それが連 日、だなんてこれまでのリアルの北村の朗読では考えられません(笑)。
それと、リアルで朗読をする、ということは言葉のしゃべり方だけでなく体の動き、というのも一つの大事な要素となりますよね。これは仕方のないことだと思います。だって、聴いていらっしゃる方々の視覚も活きているんですから。他の五感にも作用しうる何かが出始めるとすごいことになるんでしょうけれども。でも、ネットラジオという媒体では、その視覚を封じられる形ですよね。と、いうことはもう言葉一本勝負になるわけであって、だからこそ考えるものだとか、発見があるんじゃないかと思います。制約というのは、決して視野を狭めるものではないと思うんですね。むしろ、視野を広めるものだと、ボクは思っています。

R:北村さん、Poetry Garden Radio Stationの編集長なさいますか?ちゃかしてごめんなさい。色々ご示唆に富むお言葉は肝に銘じておきます。お二人とも好意的にPoetry Gardenを見てくださって心から感謝しています。

今、偶然だと思いますが詩人と詩作品、つまり作者の立場からご意見をおっしゃったんですが、もう一つの観点、つまり、朗読者(出演者)或いは編集者(制作者)の観点から見たご意見をお伺いしたんですが...わかりませんか、僕の言っていること...。つまり、このラジオの形態がね、トークショーでしょう。時間的に見たら、トーク7割、朗読3割の割合ですよ。朗読の時間はもっと少ないかもしれませんね。
おまけに、こうやって収録後の雑談までやってるんですから。
どうですか、そこのところ?いろいろご意見を言っていただいた北村さんに続けてうかがいますが、ショーとまでは言わないにせよ、「詩の朗読」以外の時間は長いですよ。どの放送も。こういうあり方っていうのは問題点あるんじゃないですかね。

K:ええと・・・(ばりぼり・・・バターピーナッツを隠れて食べていたので焦っている・・・「編集長」の言葉にむせる!)

あ、ホロウさんがご自身の作品の、読者や表現者に対する位置づけとしてピーナッツを例えに使われていましたから、ちょっとピーナッツを使ってお話してみましょう。
誰かとお酒を飲んでいて、つまみにピーナッツ出したとします。で、その時にただお皿に入れて出して、そりゃぁそれでいいんですけれどね、「このピーナッツさぁ、友達の農家が送ってきてくれたやつなんだよ。で、そいつがさぁ・・・」だなんて そのピーナッツにまつわるお話が一緒に出されたらどうでしょう。なんだかそれまでただのピーナッツが、また別の味わいを持ったりするじゃないですか。ピーナッツの味が拡がるのは一瞬なんですけれども、こうしたお話があるとその拡がり方もちょっと違ってくるんじゃないのかなぁ、と思ったりします。で、朗読の前のトークというのは、まさにこのピーナッツを出した時にする小話そのものだと思うんですよね。
もちろん、その配分だとかは考えなくてはいけない点もあるんでしょうけれども、少なくとも今までの放送におけるルドルフさんのトークの長さというものは、「長い」と感じさせるものではないと思いますよ。
むしろ、このトークというのも、作品から派生していった二次的な創作といえるんじゃないでしょうか?
正直、今までのルドルフさんのトーク、ボクは大好きなんですよね。
で、十分に聴く心があったまったところで(聴くことの準備運動が終わったところで)朗読を聴くことができるわけで。
あと、朗読するものが長い、例えば小説の朗読だったとしたりしたらどうでしょう?
朗読は15分くらい、トークはやっぱり長くて10分くらいになると思うんですよ。
つまり、トークの時間というのはそんなに変えられるものではないんじゃないかな、と思います。ただ、詩という一般的に短いものを読んでいるので、トークと朗読の時間比が7対3くらいの割合になっているだけだと思いますけど。




(つづく)














posted by rudolfkirsch at 09:28| 北京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | Essay | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ラジオラリーインタビュー1(2)(北村、ホロウ、rk) -PGR-Rally Interview1(2)(Kitamura, horou, r.kirsch)

(2)


R:そうですかね。折角、良いご感想をいただいているのに恐縮なんですが、実は、長すぎるよって声はありました。もう一つは、二次的な創作っていうのは難しい観点だぞと思うのです。
北村さんが東京でポエットリーリーデイングをなさっていたというお話がありましたが、僕も3回ほどリーデイングへ行ったことがあります。僕が行った所がたまたまそうだったのかもしれませんが、二次的な創作と思われる芸術家が多々いらっしゃいました。つまり、リーデイングというよりもパーフォマンスと言った方がいいと思うんですが、この二次的な創作が本質的に被対象である詩の作品とは別物だろうという印象を与えるわけです。100%とは言えないけれど、詩は創作者にとってはきっかけで本質的には二次的な創作だという印象です。
こんな風に言うとちょっと抽象的かもしれないから言い直しますと、バラの詩を読んだとしますと、この人の読みはバラの読みじゃないかと思えるんです。つまり、このパーフォマンスをするためには、バラの写真でも、バラの音楽でも、バラの話でも、バラの実物でも、良かったんじゃないか。
この点についてはhorouさんにお聞きしたいのですが、horouさんの作品はピーナッツのようなものなんだけれど、ピーナッツじゃなくてもいいんですよね、お酒が喉を通れば。ポプコーンでも沢庵でも。
御免なさい。言い方が悪いかもしれないけれど、この文脈では、「二次創作にとってはどうでもいい、代替の効くもの」=「ピーナッツ」=「北村さんの朗読におけるhorouさんの作品」という論旨なんですが、僕自身はもっと別の考え方があると思います。でも、それにしても、お話として、どうでしょうか。このピーナッツのハートのビートが聞きたい。(笑)

H:ふーん、っていう感じです(笑)

僕の詩は僕が書くとき、読むときに僕の詩であればそれでいいんです。
ハートのビート、ということならそれはそこにしかありません。
極端なこと言えば、誰かが僕の詩を適当に扱ったとして、
それを観客として見た人たちが僕の詩をいまひとつだと感じたとしてもそれは僕の責任ではないですしね。
でもなんかあれですね、「代替の効くもの」なんて印象を観客に与えるパフォーマンスっていうのは、表現としては失敗なんじゃないのかなって思うんですが。

R:horouさんはやはりなかなかハードボイルドで発言に気骨があって素敵ですね。

まず、前者の長さなんですが、この長すぎると言われた朗読は北村さんのじゃありません。Rudolfkirschの朗読です。まず、北村さんの名誉のために。北村さんの朗読については今のところネガテイヴなコメントを頂いていません。これからはわかりませんが、今日現在まで。
創造というのは今まで無かったものが生まれることでしょうから、一般に解るわけないないんじゃないかと思います。神様ですと材料を含めて全てが新しいわけでしょうけれど、人間は神様ではないのでマテリアルは既成のものを使わざるを得ないのです。ですから人間の創造するものは見たことのあるもので創られている解らないもの、日本語という毎日使っている馴染み深いもので書かれた訳のわからないものが詩だと思います。そういう物は無視はできないのですけれど不愉快なものだろうと思うんです。そこでどうしても一般的には既成の価値観の中に包含するように解釈を迫ってきますから、創造された価値はその独自性を訴えることになるだろうと思います。そうならずに万人に容易に受け入れられるようであれば既成の価値観で充分解釈される対象ですから創造ではなく、せいぜい新しいアッセンブリだといことになるでしょう。或いは全く無価値なものとして葬り去られるか。こういう例は歴史的にはたくさんありますね。作品が残っていて後で再認識されるとか。そこで、そういう対決を迫られる時、説明(語り)は必要だと思うのです。そして、何よりも根本的にこういう拮抗を創りだす構造が言葉に内在していると考えています。「タイピストとスタイリスト」というエッセイの中でもう少し詳しく説明しています。m.qyiが書いていますからちゃらけてますけれど。しかし、この線が崩れるとrudolfkirschは消滅し、PoetryGardenも枯れてしまうでしょうね、きっと。horouさんが大変いい意味でハードボイルドなので敬意を表して一応明言しました。正直にね。いつでも後ろから刺されるように。いやなんだけど、痛いのは。
でも、下世話に言えば、僕なんてこういう妙な野郎ですよ。horouさんの詩を読むような人間じゃない。こういうアングルでって見るわけですから、100回horouさんの前を通っても無視すると思いますね。傲慢なんでしょうか。そうじゃないんじゃないかと思うんです。見えないんですよ。当人は盲らなりに必死です。だから、こういう盲人は眼球にメスを無理やり入れられて光を差してもらって初めて解るんです。初めて見える色、初めて聞こえる音っていうのがありますよ。外国語なんてそうですよ。初めは雑音ですから。
僕がhorouさんの詩を読んで感じるところがあったとしたら僕の読解力より、北村さんの説明、または、その選択そのものが大きかったと思います。あくまで、僕にとってですよ。作者のhorouさんも、「カラフル」になるとか、「なんでしょうね、なんか、自分が書いた詩だと気がつかない...俺の詩だっけみたいな瞬間」というものがあるわけでしょう。これは、北村さんの力が大きいんじゃないかと思んです。
僕は心から言うのですけれど、北村さんのような朗読者をこのラジオステーションは求めています。トークに長さの制限はありませんし、小話以上のものであればと。
パーフォーマンスについては、horouさんから素晴らしいお返事をいただきましたね。全く、「代替の効くもの」だったら、そもそも作品を読む必要もないですよ。その作品と朗読者朗読に何かの必然性があるから読むというのがそもそものスタートですから。トークを具現化したものが朗読ですから。トークがさっき言った意味の拮抗の中で生まれるのですから、その観点を具現化した朗読も同じ戦いがあるわけで、それが「代替の効くもの」だと思われるのでしたら負けですよね。ここは詩作品とは質的に違います。

それにしても、トークや朗読が解りやすいかどうかは簡単には言えません。もともと解りにくい部分を話していますから。しかし、それは、ぼんやりしたものだったり、その朗読者の中で代替えが効くものじゃ決してない、朗読者にとっては。ですから、そこに意匠が必要で、その実現の為にどのようなパーフォーマンスを取るかは全くの自由です。

シリーズを始めたばかりということで、不安なことばかりですので、いろいろ質問をさせていただきました。言うまでもないと思いますが、上記のものは勝手な僕のメガネとアングルの説明ですから、お二人がどうされるかというのは別の問題です。そうは問屋が卸さないところこそが面白いので。もし何かアドバイスやご批判などありましたらメイルでもください。こんなしつこいことやってると読者いなくなるよとか、ね。

北村さんは、今後のhorouさんへ、今後の期待とか希望みたいなものがありますか?あくまで北村さんの中でということでけっこうですけれど。


K:いや、ルドルフさんのおっしゃりたいこともよくわかります。

結局、例えばホロウさん(の作品)を受信しうるアンテナがもともとその人にあったかなかったか、というところもありますしね。で、このラリーというのはある意味、「この周波数に合わせてみて下さい」ってところもあると思うんですね。はい。
しかし、今回の朗読通して、ほんと、いろんな意味でホロウさんと語り合えた様な気がします。直接的にも、間接的にも。で、ボクは「自分が許されることのほうが先決問題(『酔いどれの誇り(ジェームス・クラムリー)』より)」なんで、ホロウさんに何かを求める、というのもないんですが・・・まぁ、こんなボクを捨てないでくださいね(笑)と。
ああ、でも、なんです。ほんとにホロウさんには活字で出版してみて欲しい、と思ったりもしますし、音楽だったらCDとかDVDで全国進出してみて欲しいなぁ、とか本気で思ったりしますね。いや、そん時はなんでもしますから。
それと、一緒に東京のオープンマイクに行きましょう。宿はこちらで用意しますから。
と、本当に個人的なものでしょうかね。(笑)

R:あ、なるほどねえ。あのhorouさんと北村さんがオープンマイクで朗読されたら、僕もどっかにいるかもしれませんねえ。気づいていただけないとは思いますけれど。CDなんかも本棚の左端にあったりして。さりげなく、真ん中じゃないんでしょうね、取り出しやすいんですよ。左利きです、僕。

horouさんは北村さんになんかメッセージみたいなものはないですか。面と向かって言うのとは違った、Poetry Gardenを契機にしたようなメッセージがあったら是非聞いてみたいんですが。


H:ちょっと考えたんですが、CDについてるライナー・ノーツと考えた方がいいかもしれませんね。朗読の前のトークは。輸入盤で買うとつまんない時あるじゃないですか、ライナーノーツとか歌詞対訳とか入ってないと。それこそ彩というか、ボーナス的な。なきゃないで困りもしないんだけどっていう。考えてみればインタビューからバンドやシンガーに入っていくことだってありますもんね。

もちろん僕はそういうものを否定する訳ではありませんし、変にプライドを振りかざすつもりもないんですが、ではその中で自分の詩についてと問われれば、先の発言のようなものが根底にあるっていう感じです。誰を揶揄するつもりも、否定するつもりもありません、はい。だから、ピーナッツです。
で、北村さん。本当に一度、リーディングツアー、行きたいですね!
本は今年も数人の方に聞かれたんですけどね。出さないんですかって。オカネかかりますしね。CD,DVDの方がラクかなぁ、自分で作れるし。あとあの、最近考えてるんだけど、コーラスをバックに朗読をしたいんですよ。楽曲と詩のテーマの噛み合わせが難しいかもしれないんだけど。組曲的なリーディングを展開してみたい。
でも考えるのは面倒くさいみたいな()
それと、今度はぜひ、北村さんの詩を朗読させてください。
いやーなんか僕の方も個人的な話で終わっちまいました。

R:
ライナー・ノーツより熱いものがあったと思いますけれど、でも、そういう考え方もあっていいんだと思います。マーケットというところは自分の世界を持っているところでしょうから。あんまり、そうピーナッツに執着しないでくださいよ。書いている側、読んでる側、見せようとする側、多少入り方が違うということですから。僕はhorouさんの姿勢はよく分かります。

本も素敵だと思いますが、今まで、リーデイングのバンドとかっていうのは無かったんじゃないですか。そういうのを創ってみたりしたらどうですか。CDやDVDのことっていうのに無知なんですが、おっしゃるような色々なバリエーションが組める朗読が可能になりますよね。
最後の一言、ちょうど悩んでいる点なんです。シリーズ5回でやろうとしているんですが、5回目の方は多分納得いくと思うんです。ところがね、このイベント正に生み出した1回目の朗読者っていうのは、紹介されないんですよ、このやり方だと。全然。でもラリーの方向性や質を決める度合いは1回目が大きいだろうに、ね。
それで、ね、こういうのはどうですか?北村さんに自作品を一つ選んでもらって、それをラリーの最後に5人の朗読者で読む(5本の朗読を作る)というのは。
北村さんが承諾していただけるのなら、僕からこれから参加される方にその都度お願いしますけれど。5色の北村さんが読まれるというのはどうですか?いやですか?
horouさんはOKなんでしょう?読む作品の拘りとかがあり、やりにくいですか?
読むほうが作品を決める方がいいかなあ。

K:まず、ホロウさん、温かいお言葉ありがとうございます。

色々と面白い構想とかも考えていらっしゃるみたいで、今後も益々目が離せませんね。
え、最後に5色の朗読ですか。面白いですね。まず、今回のラリーの第一部のグランドフィナーレとして最高の演出ではないでしょうか。そのフィナーレにボクの作品を使っていただけるだなんて、こんな嬉しいことはありません。ほんと、どうぞご自由に色をつけてください、という感じです。はい。

(うわっぁ・・・お酒も入っていないのに、ただいま顔面がまっかっか。心臓バクバクです。)


R:北村さんはやってもいいということですね。そうですね、25日がhorouさんの放送でそのちょっと後から次の対談を始めたいから...ええと、12月1日までに自作品を一つ選んで頂くということで。

horouさんの方はいいんですよね、読み方はお任せします。やっていただけますか。


H:大丈夫です、OKです。


R:あ、そうですか。嬉しいです。それじゃ、是非5色で。北村さんも衣装ご用意しておいてください。horouさん、朗読される詩人の方にもちょっとご相談ください。勿論、僕もお願いします。
あの、horouさんが朗読される詩人の方と作品ですね。リスナーの方は興味があると思うんですよ、次回の予告として、ほんのちょっとだけ、ポイントというか、聞きどころというか、どんな朗読になるかコメントいただけると嬉しいんですが。

H:そうですねー、僕はとものさんという詩人を紹介&朗読させていただくんですが、「embracing」という詩の、彼女が持つ言葉のソリッドな部分、深淵まで曝しながら冷静さを失わない「目」の感覚。つまり彼女の詩人としての地力みたいなもの、それを僕がどこまで表現できてるか、というところがポイントだと思います。トークの部分で言えば、若干FM臭がするところと、(あ、ここから台本ないな)とはっきり聞き取れる部分ですかね()まずまずな出来にはなってると思います、どうぞお楽しみに!て感じで。

北村さんの詩、楽しみにしております。感じを掴むためにとりあえず海釣りに行ってこようかな。
五色朗読、とものさんに連絡しておきますね。

R:horouさんの朗読「embracing」(written by Tomono)、期待しています。放送は今月の25日の予定です。楽しみにしています。

それでは、長い時間お付き合いいただきまして、ありがとうございました。このラリーのスタートを切ってくださった北村さん、素晴らしい作品と続く朗読を引き受けてくださったhorouさん、本当にありがとうございました。

K:いえいえ、こちらこそありがとうございました。

そして、こちらをご覧の皆様、次回のホロウさんの朗読にぃ〜スゥイッチィ〜オン!

H:素敵な機会を与えてくれたm.qyiさんと北村さんに感謝です。

あとなんか対談不得手でごめんなさい。
お疲れさまでした、ありがとうございました(^^)


(終わり)







posted by rudolfkirsch at 09:04| 北京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | Essay | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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